TAIRA TAKESHI ATELIER
建築写真家・平剛のサイト
平剛風アトリエ

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〜世界の建築写真をお楽しみください〜

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Page2 UP!!
            
中世建築研資料ほか UP!!
サマルカンド編 UP!!

本ページの写真は個人で楽しむ以外の複製、転載、配布などはご遠慮下さい


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若い頃から世界50カ国くらい回って建築の写真を撮って来ましたが、去年は見積が高過ぎて住宅も出来て来ない悪夢のような年でした。建築費が上がっただけ家賃は上がらないので賃貸の集合住宅などはプロジェクトが動きませんね。困った時代です。見積が高くて止まっていた住宅の話しが動き始めて今年はやっとできてきそうですね。

今年は小さいものにも対応していきます。もともとレストランなどのインテリアでは5・6カットしか撮るところが無いという時があり、そんな物件で設定していた撮影料で、1時間2時間で済む5・6カットだけの撮影なら3万、5万、10カット以下で8万とか、そんな設定も考えてみました。またドローンは15万以上の1日フル撮影なら含まれますが、ドローンのみで5万などもあります。コンパクトな撮影も必要ですね。詳しくは下の撮影料についてをご覧下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よく設計者たちがカメラを買って自分で写真を撮ったりしてますが、アングルは写真学校出た人より良いアングルになりますが、光は写真の世界の人の方が良いというのがあります。ただ写真の世界の人は建築を撮るというと建築がどういう形かを撮ろうとします。それは設計者も同じかもしれません。建築出身で一級建築士も一応持っている私の場合は、構造物を撮るというよりその空気感を撮るというのがあります。それが絶対的な違いだと思いますね。

  『X ( 建築の空気 ) = 断片 f + ( 記憶 M ) 2乗』ですね

若い建築家たちほどカメラを買って自分で撮っているかもしれません。ただ知っておいた方が良いのは、雑誌の編集に見せる写真は雑誌に載るくらいの良い写真じゃないとボツになるというのがあります。よほど凄いものなら別ですが、微妙なものほどそのまま誌面にあってもいいような写真を見せないとボツになります。私が撮っていて、これは載るというものはたいてい載ります。載せたい雑誌によってその誌面にありそうな写真を撮って編集者に見せれば載りますよね。それを自分で撮ったものを送ってしまうと没になってしまいます。そういうものはやはり私などに頼まないといけませんよね

ある建築家が古い住宅に10畳一間のリフォームと屋上にちょとしたスペースをつくったというのを新建築に見せたら、もちろん没になりましたが、私が1部屋をいろんなアングルでいろんな時間に撮って、建築家がそれを新建築に見せたら「これはどこかでやるんですか?うちでやります!」となり、4ページもやっというのもあります。いろんなアングルを撮るとたくさん部屋があるように見えるんですね。良い写真というのはそのくらいの力があります。

編集者は写真を見ればそういうものが想像できるかと思ったら間違いです。現実の建築を見に来てもそれで誌面に合う写真が撮れるかどうかも想像できないのが現実です。実際に見てもらう前に良い写真を見せると、そういうものとして見てくれるというのがあります。なので編集者に見せる写真が雑誌の写真より良い写真じゃないといけないんですね。いろんな賞も写真で判断されます。照明関係などは写真のみで決まりますね。わたしの撮った建築はよくいろいろな賞を取ります。良い写真を撮っておくというのは重要ですね。

近頃はドローンの撮影も普通にやっており、地方の交通費も安く行ける方法もできてきました。ドローンの撮影や地方の撮影など気軽にメールして下さい。もちろん世界中どこの撮影でも大丈夫です。

 

 

 

 

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トピックいろいろ

 

千夜一夜

 

エピソード10

イランに女の子4人連れていったときのこと。

イラン北部のウルミエの街に行ったときのこと。
そのときは、イスタンブールで後輩たちと落ち合って、
トルコから、イラン、イラク、ヨルダン、エジプト、トルコと回って帰ることになっていた。

ウルミエの町には、キリスト教の昔の公会議で異端とされたネストリウス派の教会と、
シリア正教の僧院あるいは教会があった。
ほかにも、近くにたくさんのアルメニアの教会があったりする。

そういった教会や僧院に行って、学生たちは建築の図面を書くための実測調査をする。
ウルミエの教会は、ゾロアスター教の聖地を改造してつくっていたりしたので
たいへん面白く、実りの多い物だった。
シリア正教の教会などは、ここほどシンプルできれいなつくりのものはないだろう。
ただ、もともとネストリウス派の聖堂であったのが、平面的な形でわかる。

そんなこんなで、町をうろうろしていた。
学生たちは、建築の学生で、それを卒論あるいは修士論文にするつもりで来ていた。
男女会わせて、僕を入れて10人の大人数だった。
なかなか纏まって動いてくれなかったり、
食事のときはみんなの注文を聞くだけでたいへんだ。

ある日、町をすこし歩いてぶらぶらすることにした。
バザールは、まったく観光地ではないので我々は注目の的だ。
当時、おしんがテレビで放映されて、かなりの人気だった。
おしんが、イスラムの女神的なムハンマドの妻と比較され、
おしんがムハンマドの妻と同等の、貞淑な女性として祭り上げられた時には、
さすがにホメイニ師も、行き過ぎと自重を求めたほどだ。

だから、町中を歩くと、女の子たちはひたすら、
>おし〜ん?
と聞かれ続けた。
彼女たちは、そのたびに自分をさして、おしん・・・と言って済ませていた。
言葉が通じないので、それが唯一のコミュニケーションだった。
国境の手続きだけはそのお陰で、簡単に済んで助かった。
おしんと言えば、何の調べもなく素通りできたのだ。
おかしいのは、後ろにいたドイツ人の女性も意味が分からず、
自分をおしんと言って通してもらっていたことだ。

しかしそれだけでは済まなかった。
通りを歩いていると、ジープが数台走ってきて我々の前で急に止まった。
コミテだ。
またか・・・・・
コミテに連行されるのも何度目だろう。

あまりにも行くところ行くところ連行されるものだから、
時間がとられてたまらないので、
一度、おおもとのイスラム指導省に行ったことがある。
日本大使館に相談に行ったら、何も出来ないと言うので
直に行ったのだ。
知り合いの知り合いのような人を訪ねていったら、
その人は、大臣か次官くらいになっていたので、
他の人が応対してくれた。

>何か問題でもありましたか?
--ええ、いつも村の方で写真を撮っていると、コミテが来て連行されて困るんです。
>そうですか。そんなはずはないんですけどね。
>日本人は写真を撮っていても何の問題もありませんよ。
--でも、いつも連行されますよ。
>すみません。問題はないのですが、みんな仕事熱心なんです。
>これからそんなことがありましたら、ここでそう言っていたと言ってください。
>ところで、どんなところに今回は行きました?
--アルメニア国境のジュルファとか・・・
>ジュルファ・・・私は行ったことはありませんね。
>でも、日本に行ったことは何度もありますよ。
>飯田橋のほら、***会館なんか良く行きました。
>新宿のミミを知ってますか?

なんか妙に身近な話しになりました。
そんなことがあったので、コミテも何も気にしないのですが、
今回はまた何が起きたのかと思いました。
だいたい、連行に来る兵士たちは言葉が分からず、
ただ、命令を実行するだけという様子です。

本部に着くと、きれいな部屋に通されて、
言葉のわかる上司がでてくるのがいつものパターンだった。
上司が来た。
>お茶はいかがですか?
--いただきます。
--いったい何故ここに連れてこられたのでしょうか。
>すみません。あなた方の身が危険だったからお連れしたんです。
>美しい女性たちが、自由な格好で町を歩いていると危険ですから。

確かに彼女たちは、日本人としてはかなりきれいな方と言えた。
しかし、格好はジーンズにシャツという格好で、肌が見えないようにはしていた。
しかし、田舎のことだから、みんなもっと禁欲的な格好を女性たちは強いられている。

>通報がたくさんあって、なんであの外国人たちはあんな格好で
>町を歩いていいんだ、というんです。
>自分たちもそういう格好をしたいのに我慢して居るんだから、
>彼女たちにもそういう格好をさせろというわけです。
>もちろん、あなた方はそういう格好をしなくてもいいんですが、
>できれば、町を歩くときには頭に何かかぶったほうがそういうことを
>言われなくて助かるのですけどね。身の安全というのもありますからね。

そんなことでした。
NHKのテレビの体操番組で、インストラクターがかわいい女の子だと、
おばさんたちからクレームがくるというのを思い出しました。
いずこも同じだなと思いました。


いつものように、賢そうなイランの地方官吏にお茶をごちそうになって
楽しい話しが聞けて、結果的にはたのしい旅の1ページができました。


エピソード9

モスクワに模型を取りに。

ある日、僕の大学の教授から電話があった。
>平君、ちょっとモスクワに行かない?
--えっ? 何ですか突然・・・・
>ちょっとモスクワから、持ってきて欲しいものがあるんですけどね。
--別に時間はあるからいいですけど。
--で、いつ頃ですか?
>あさってとか・・・・
--えっ?あさって???
>月曜から展覧会があって、会場にその模型がないといけないんですよ。

なんで今頃そんな話しをしてんねん!!!
当時、あさってモスクワにと言われて、
ビザも持たずに行ってこれるのは僕くらいだった。
モスクワ空港のトランジットルームの上の、休憩室の奥に
トランジットビザを発行するところがあるのを知っている人は少ない。
それにそのビザをもらうのに、いろいろやることがあった。
免罪店でタバコやお酒を買って、手みやげを持っていかないといけないとか・・・

翌日チケットを買った。ロンドン往復でモスクワ経由にした。
そのほうがモスクワ往復より安かったからだ。
ついでにロンドンで、産経新聞がほしいという写真を撮って、
1日でロンドンのかなりの所を歩いて、ロンドン観光は終わった。
建築家トム・ヘネガンはそれで十分だと言っていた・・・

モスクワで手みやげ持って、ビザもらって、
とりあえず知り合いの所に行った。
建築家のミハイル・ベロフ、アバクモフ、
それにブロツキー&ウトキンの模型を取りに行った。
話しでは、模型の大きさは50〜60センチの軽い物で、
機内持ち込みしてほしいということだった。
ベロフとアバクモフのほうは確かにその通りだった。

ブロツキーとウトキンのところに行った。
模型の大きさを見た。
・・・・・!!
だまされた・・・・
このために僕だったんだ・・・
それは木箱に入って、80×80センチ、高さが1メートルくらい
重さは40キロ・・・って、お〜い・・・海なんかきらいだ〜

おまけにそれは、ドイツの建築博物館所蔵の美術品だった。
機内持ち込みなど出来る代物ではない。
空港まではブロツキーとウトキンが運んでくれた。
問題はそれが普通の荷物として通るかだ。

チェックイン・・・・

>この荷物は大きすぎるので、カーゴで別に送らなければなりません。
おいおい〜〜〜どないすんね〜ん
>このカウンターではお取り扱いできません。
たいへんだ・・・
もう時間がないからそう言うわけにはいかない・・・・
で、・・・ゴネた・・・・・
今日運ばないと、展覧会に間に合わないとか言って、
ずいぶん時間はかかったが、
なんとかそこで扱ってもらえることになった。

が、また問題が発生した・・・・
重量の超過料金が、かなりなものになる。
そんなはずではなかったので、持ってきていない。
またまた、ゴネた・・・・
ほかの客が居なくなるのを待った。
で、そこにいる人たちみんなに・・・・・口止め料でなんとか

冷や汗ものだ・・・・・
こんなことをやれるのは、中東アフリカでトラブルだらけの旅行をしてきた
人間でないと無理だろう。
こういう問題のために、僕に言ったな・・・・
僕は、はじめて悟った。

成田について、木箱の中をレントゲンで見る羽目になったが、
建築の模型ということで済ませた。事実ではあるが・・・
美術品となるといろいろ書類とかが必要となる。


そうしてやっとタクシーで成田から東京に向かった。
展覧会の前日のことだ・・・・
こんなんでええんかい・・・・


いまでも、問題がありそうな話しは僕の所に来る。なんでや〜〜〜


エピソード8

トルコ東部カルスの近くの山奥に、遺跡を探しに行ったときのこと。

タクシーで、数百メートル高いところにあるらしい遺跡に行ってみた。
1時間ほど山を登って行くと目的の村が見えた。

ふとみると、その村に行く道はきれいな道ではあったが、
たいへん急な下り道だった。
村はずっと下の方に見えていた。
急すぎて、降りることは出来ても
上れないのではないかと思った。

運転手に、車はここに置いて歩こうと言った。
しかし運転手はだいじょうぶだというので、車で村まで行った。
かつて僧院があったところで、今は廃墟しかない。

村人がやってきた。
良く見ると、後ろに大きな鎌を持っている。
それは何かと聞くと、
気にするなと言う。
気にするなと言われても、気になるだろう、それは・・・

アルメニアの遺跡のあるところには、
後世の修復の資金として、財宝が埋まっていることが多い。
それを掘り出しに来るゴールドハンターがいて、
遺跡の財宝は村の遺産なので、守らなければ行けないという。
ドイツ人なんかがよく金属探知器を持って探しに来るのだ。
そういう外国人が、ときどき行方不明になったりする。

遺跡に行くとよく大きな穴が掘られていたりする。
この村では、その前にすでに掘り出して保管してあるそうだ。
お茶をごちそうになって、帰ることに。
僕の場合、写真になるきれいな聖堂を探しているので、
建物のないところにはあまり興味がない。
僕の写真の僧院などはそうやって探し出したものばかりだ。

車に乗って帰ることにした。
しばらくすると例の坂・・・・
止まった・・・
見てみ〜〜・・・やっぱり登れんやないけ〜〜
どうすんね〜ん〜〜〜・・・・

運転手は言った。
>僕は運転しないといけないから、後ろを押して・・・
ねぼけとんのか〜〜
そこは、歩いて登るだけでも滑って上れないような
きつ〜い坂で、登り終わったらぜいぜい言うようなところです。
そこを車を押して登りました。


だから言うたやんか〜〜〜
人の言うことには、とりあえず耳かさんかい〜〜


エピソード7

レバノンの僧院を訪ねたとき。

ジュニエの高台にある、ミッションの自分の部屋で、快適な生活を数日続けたある日。
校長先生に相談した。
どこかマロン派の僧院に行きたい。
校長先生は、知っているところがあるとかで、後で連れていってくれると言う。

夕方、車で少し山の方に向かったところにある、綺麗な僧院に行った。
こちらはまぎれもない僧院なので、黒い服の修道僧が出てきた。
修道院長に話しをしてくれた。
そして、そこに泊めてもらえることとなった。
校長先生たちに、別れを告げて僕はそこに残った。

きれいな石の僧院だった。
夕方になって、歳行った修道僧たちが帰ってきた。
そこの修道僧たちは皆、昼間は山を降りて
ジュニエの町の大学で神学を教えているのだった。
修道僧の1人が声を掛けてきた。
>あなたは先日、大学に来た人でしょうか。
--先日、行きました。でも誰も居なくて・・・
>話しを聞いてずっと探していたんですよ。

彼は、かつてはローマの大学院で考古学の勉強をしていたという。
>兄がその大学で芸術学部長をやっているので、何かあったら言って下さい。
>何か力になれるといいんですけど。
--ありがとうございます。こんど訪ねてみます。

それから、毎日のように朝夕のミサに出席して、
みんなと一緒に食事をして過ごした。
朝の食事が済むと、大学の授業にみんなは出かける。
僕もそのバスで一緒に山を降りた。

レバノンでは、公共の交通機関というのはなかった。
無差別テロのターゲットになって、危険なのでなくなったのだ。
おまけに、ヒッチハイクは絶対できなかった。
知らない人を乗せるのは、死と同じ意味を持っていたからだ。
だから山を降りるのは、いつもそのバスを使うしかなかった。
あとは、たまに通りかかる空のタクシーを見つけるかだ。
でもかなり待たなければならなかった。

一度山を降りると、タクシーはいくらでもいる。
日本で知り合ったレバノンの人の親戚のマーケットがあったので、
たいていそこに寄って、サンドイッチをご馳走になった。
その店の前にいつも車を停めている、ハンナの車をいつも使った。

近隣の高原の方に、無数にある僧院を訪ね歩いた。昔の道場破りの気分だった。
たのもーとか言って・・・・
しばらくその修道院の話しとか、キリスト教の話しなどをする。
特に僕の行った他の僧院、たとえばシリア教会、アルメニア教会、
エチオピア教会、コプト教会などの僧院とその生活の話しなどだ。

そんなときには、たいてい自家製のワインかコニャックが出てくる。
これがたいへんうまい・・・

そんな武者修行?を終えて夕方は、いつものミサに出る。
そして食事。シチューがおいしい。
知らないでしょうが、レバノンの料理は世界一かと思うほどうまいんです。
僧院の食事も質素ではありますが、おいしいものでした。

夜、静かになってから、中庭の回廊のベンチに座って
静かに満天の星をながめるのが日課だった。
井上陽水やサザンを聞きながら星を眺めた。

たまに町に降りないで、ゆっくりしている日もあった。
ここにいる若い修道僧たちは、大学で勉強しているが、
午後2時になると、皆帰ってきて、それぞれの趣味に没頭する。
ある修道僧は、ピアノを勉強している。

僕の部屋は、外から来たビショップ用の部屋で、広くてきれいなところだった。
昼頃までうとうとしていると、そのうちバッハのピアノが聞こえてくる。
中庭に柔らかく響くビアノの音色は、昼のまどろみにはたいへん良かった。
ときどきリクエストを出して、ショパンも弾いてもらった。
ピアノの聞こえる昼下がりが、いちばん心地よかった。

日々、若い修道僧たちと神についてや、瞑想について話すのは
たいへん楽しかったし、彼らもたいへん慕ってくれて、
別れるときは、ちょっと淋しかった。
いつかまた来る、と言って僕はその僧院を出た。

 

エピソード6

レバノンでの話し。
初めてレバノンに行ったとき、まだ内戦が終わるかどうかくらいの時だった。
空港は戦闘でぼこぼこの時が多く、あまりあてにならなかった。
だからキプロスから、ベイルートの北20キロのジュニエにフェリーで行った。
フェリーはちょうど、東京−大阪間のフェリーという感じだ。

ジュニエの街に着くと、取りあえず落ちつき先だ。
海沿いの中級ホテルを見つけて、部屋を取った。
港からホテルに行く間に見た町の様子は、
今まで見たことの無いような戦争の跡が、生々しく残っていた。
歩いている人の中には軍服の人が多く、銃器や
下手をすると、対戦車砲を持っていたりする。
なんなんだ、ここは・・・
さすがに怖くて、ホテルの外にはなかなか出られなかった。

知らないところですることは、まず知り合いをつくることだ。
大学に行くことにした。
建築の教授などに会って、協力をお願いするというのもあった。
しかし、そのときはもう休みに入る季節だったので、
あまり先生方は居なかった。

マロン派の主教座に行った。
残念ながら力にはなってもらえなかった。
マロン派の僧院のことを調べたかったので、
お先真っ暗な気分だった。
やはり戦争があったので、
知らない人間には関わらないという姿勢が感じられた。

ホテルで、丘の上に僧院がたくさんあると聞いたので
行ってみることにした。

レバノンは、例えるなら伊豆のようなところで、
海沿いの狭い平地に町があり、
そこから急に、1000メートルくらい丘が立ち上がっている。
地中海の海風がそこにあたって、
水分をみんなそこに落としていく。
だから中近東とはいえ、緑でいっぱいのうつくしい国なのだ。

丘の上の最初の僧院に行ってみた。
ギリシャ・カトリックのミッションだった。
僧院というのとは少し違う。
神学校というのだろうか。
レバノンの僧院のことを調べたいと学生に言うと
校長先生を呼んでくれた。
校長先生は気さくな人で、泊まりたいというと
二つ返事で泊めてくれた。
いちばん良い部屋をくれたようだ。
窓からは遥か下にある町の風景が延々と見えて、
遠くベイルートまで見渡せた。
部屋は大変きれいで、真っ白いタイルで覆われた
シャワールーム付きだった。
お湯も出た・・・

ホテルなどよりずっと居心地良いところだった。
レバノンではいちばん心休まるところだ。
巡りめぐって、たどり着いたのが
そんな素敵なところで、
今までレバノンで人の冷たさに悲しい思いをしたのが
遠い昔のように、
レバノンが何やらたのしい所に変わった。

アルメニア人の学生が、彼の居る僧院に行こうと言う。
アルメニア教会は、あまり人が居ないので学校がないらしい。
で、そのミッションで学んでいるという。
面白いから、行ってみた。
丘の上のアルメニアの僧院は、
森に囲まれて、大変きれいな姿を浮かべていた。
泊まってみたい僧院だった。

ちなみに普通は、僧院には泊まることは出来ない。
僕のやっていることを見て、いろいろ話しをして
それで泊めてくれるわけで、
普通の旅行者が行っても、そういう訳にはいかない。


レバノンを親しみやすいところにしてくれた
その人たちのことは、今でも記憶に大きく残っている。



エピソード5

イランの聖地コムでの話し。
まだイラン・イラクのイライラ戦争の最中でした。
せっかくだからコムに寄っていこうということとなり、
コムの町に行った。
有名なモスクまで町をぶらぶらしながら
様子を見て行った。

戦争中というのもあり、この町自体が訪れて良いものか
どうか怪しかったからだ。
町を歩く人たちの様子は、ほかの所と変わらない。
記念写真を撮るイランの人たちも居た。

モスクに着いた。
試しに警官に写真を撮っても良いかと聞くと
以外にも構わないと言う。
おかしい・・・
イスラム圏では、
ものを聞くときは3人に聞けという法則がある。
ほかの警官にも聞いたが皆構わないと言う。

気が変わらないウチに撮ってしまおうと、
さっさと数枚撮って、早めに引き上げた。

当時イランでは、田舎で写真を撮っていたりすると、
コミテあるいは革命防衛隊というのが飛んできた。
だからいつも早めに切り上げるようにしていた。

バス乗り場に、バスを探しに行った。
すると男が1人・・・
>君らはモスクで写真を撮っていたか・・・
--はい・・・

するとトランシーバーで、
ここにいたと言うようなことを連絡していた。
ジープがすぐにやってきた。
>ポリスに行くから、乗って下さい。
--警官に聞いたら写真撮っても良いと言ってたよ、みんな。
--何が問題なの?
>大変問題です。
>イランの人は写真を撮っても構わないけど
>外国人はだめなんだ。
>警官は外国人なんて来ないから知らないんだよ。

ジープの後ろに乗った。
イランでこういう風に車で連行されるのは何度目だろう。
車の中でカメラのフィルムを新しい物と変えた。
取り出されるのはわかっていた。
情報部のような私服の人たちばかりの事務所だった。
上司が出てきた。

>この町では外国人は写真を撮ってはいけないんです。
>すみませんね。なにしろ戦争しているものですから。
こういうところの上司は大抵英語を話す。
人によっては、むかしパーレビ時代には
日本に行ったこともあったりする。

>フィルムをもらっても良いですか?
>良ければ現像して、関係のない物は送ります。
無理だと思う。
そのフィルムはイランでは現像できないからだ。
カメラの中にある新しいフィルムを渡した。

--コム以外の写真は大変大事な物なので、
--ちゃんと送ってもらわないと困ります。
と言って、あとは世間話で和気あいあいと話しをして
そのあとハイウェイまで連れていてくれた。
そしてイスファハン行きのバスを見つけて
乗せてくれた。


イランの警察のそれなりの地位の人は
いつも大変親切だった。
そしてコムの写真は綺麗に撮れてました。



エピソード4

アルメニアからトルコに、列車で入ったときのこと。
今はどうなっているかわからないけど、
そのころは、アルメニアからトルコへは陸では入れないはずだった。

レニナカンからトルコのカルスへ、列車自体は行っていた。
アルメニア人に聞くとトルコに行けるという。
本当はアルメニアにいること自体、パスポート上はまずかったが
とりあえず出国手続きをしてみる。
何しろアルメニアでは、アゼルバイジャン問題ですでに 政府軍と交戦しているのだから
いまさらロシアの入国カードの内容など、気にしないかもと思った。

レニナカンの駅の中で、うろうろしているときにロシア人がいた。
政府軍と交戦していると言うことは、彼らは敵と言ってもよさそうな存在なので
なにか所在なげだった。
大方KGBの国境警備関係だろうと思った。
さびしそうだから、片言のロシア語と簡単な英語で話したりしてあげた。

しばらくして、出国審査が始まった。
取りあえずは、税関の荷物のチェック。
まあそれは問題なかった。
そして、パスポートコントロール。
どきどきだった。
出国の手続きは、ソ連の役人でアルメニア人ではなかったから。

僕の番が来た。
するとそこにいるのは、さっき廊下で話していたあのロシア人だった。
彼は笑顔でこちらを見た。
>君は、ここからトルコに行って、買い物をして帰って来るんだよね?
--えっ?それはリエントリー・ビザがないからできないよ。
>いや、そういうことではないんだ。よく聞いてくれ。
>アルメニア人は、ここからトルコに買い物に行って帰ってくることができるんだ。
>君も彼らと同様、トルコで買い物をして帰ってきて、
>それからモスクワに行ってから、日本に帰る・・・そうだろ?

意味がやっとわかった。
やはり、ここからは本来出国はできないんだ。
彼には分かっていたが、僕が帰ってこなくても
彼はまったく知らないこと、ということだ。

--もちろんさ。僕はまたレニナカンに帰ってくるよ。


列車に乗ってしばらくすると、ゆっくりと走り出した。
本当の国境まではKGBが何人か乗ってきた。
KGBの他の若者が僕に聞いた。
>君はカルスにいったい何を買いに行くんだ?
>本当に買い物に行くのか?
・・・やばい・・・
すると、例の役人が彼に何か説明していた。
国境の川の手前で、KGBはみんな降りてしまった。
そして僕はカルスの駅に到着し、
イスタンブールに向かいました。


旅ではいろんな知り合いをつくるといいですね。


エピソード3

昔、トルコとイラクの国境、正にテロ地帯に遺跡を探しに行ったときのこと。
いつものごとく、やっぱり山登りになってしまいました。
そのうえ、その山はPKK(テロリスト)のアジトということでした。
しばらく道無き道を登っていると・・・
下の方から人が1人登ってくるのが見えました。

しかしその様子は、なんとなくむかし西部劇でよく見たような・・・
銃弾を両肩からX状にたっぷりもって、
おまけに胸には手榴弾を4つほど、弁当代わりに持ったお兄さん?
って、あんた、やばいんじゃない?

そのお兄さんは、僕らに追いつくと優しく言いました。
>どこへ行くの???
>遺跡へ行くの?
>じゃあ、危ないから一緒に行こうね・・・
危ないのは、あんたや・・・
妙に優しいのがかえって恐かったりして・・・

知らない人にはついていってはいけません、と親には言われていたので
着いて行きたくはなかったのですが、一緒に行くとことに・・・

>荷物重そうだね・・・
>じゃあ僕がそれを持つから、君はこれを持って・・・

って言って、僕は何故か銃を持って登ることに・・・
重たいカメラバッグは持ってもらったので楽でした。

無事、誰も知らない遺跡にたどり着いて目的は達成しました。
そして、山を下って帰途につくことに。
しばらく降りると・・・

>待て・・・
>何か居る・・・
>ここは唯一の水のあるところだから
>テロリストが水を飲みに来ているらしい・・・
>あちらを見ないように
>やり過ごすから急いで・・

って、あんたはテロリストじゃないんかい・・・
村のやさしいお兄さんでした。
パンとチーズの昼食を頂きました。


エピソード2

アルメニアの南部の町、ゴリスに行った。
英語を話す人は全く居ない。
僕は高校・大学でロシア語をやっていたので
忘れてしまってはいたが、多少は話すことができた。

ゴリスでは外国人など来ないのと、
人の紹介の紹介というつながりで動いていたので
市長さんが自宅での食事に呼んでくれた。

そこではパンにたっぷりのバター、それに黒いぬるぬるしたものが
山盛りに出てきた。
それが初めてのキャビアとの出会いだった。
これはうまかった。
それからゴリス市の建築課の人が、
南部の遺跡にいろいろ連れていってくれた。

しかし翌日になると状況が一変した。
人々がパニック状態だった。

>今朝、5キロ先に政府軍が攻めてきた。
>君は関係ないから、はやくエレヴァンに向かった方がいい。
>僕らは逃げるところがないからここにいる。

ゴリスの町は、アゼルバイジャン領のナゴルノ・カラバフに一番近く、
ほんの5キロでアゼルバイジャンとの国境でだった。
そして、そこはいちばん戦闘の激しいところだった。

ナゴルノ・カラバフは、本来このゴリスから陸続きの土地だったらしい。
それがアゼルバイジャン領になって、領地が2キロほど切り取られて、
今はアルメニアとは2キロだけ離れている。

バス乗り場に連れて行かれて、
エレヴァン方面に向かうバスで、途中の町までいった。
運転手は、僕のことをほかの車に頼むよう言われていて
さらにエレヴァンの方へ向かった。
ある町で、今日はここに泊まった方がいいと言われて降りた。
その泊まるはずの家にいくのかと思ったら
警察署長の家に連れて行かれた。

で、なんと150年物のコニャックをゴチになった。
う・う・うまい・・・・
そのくらいになると、ほとんどオイルのような粘りがあって
とっても甘い・・・
香りがまたなんとも言えない香しさ。
でも、すぐに頭がふらふらしてきた。
その日は安らかに眠れた。
翌日また車の乗り継ぎでエレヴァンに着いた。

ホテルに行くと、
フロアマネージャーが、これはあなたの本では?
と一冊の本を持ってきた。
それは南部に行く前に女の子に渡した、僕のお気に入りの本だった。
同行したうちの1人の女の子が、暇だというのであげたのだ。

渡したときには・・・
>ありがとう。ゆっくり読むわ・・・
と言っていたが、直ぐに捨てたらしい。

あとでその話しをしたら
>ばれたか・・・だって重かったんだもん
だとさ

女は政府軍より恐いと思った。


エピソード1

アルメニアに行ったときのこと。
その頃、ソ連は崩壊直前だった。
しかし、まだ完全に崩壊しては居なかった。
もはや中央の力は弱まっていて、
アルメニアの遺跡などに行くのに、国営のインツーリストはその手配ができなかった。
そこで、イリーガルに、グルジアからアルメニアに入ることにした。
ソ連の裏の世界のことがわかるグルジア人に手配してもらって、
車でアルメニアに入った。

エレヴァンのホテルでのこと、
僕は外国人としては、そこに居ないことになっていたので
ホテルの部屋は、そのグルジア人が借りた。
彼はホテルの各階にいる、フロアマネージャーに賄賂を渡して
僕が泊まれるようにしていた。
ただフロアマネージャーも、職務上その事実を知りながら
見過ごすことはできない。
だから、できるだけ席にはいないようにして、
僕と顔を合わせないようにしていた
つまり、彼女は何も知らないということで話しは着いていた。

朝、食事のためにレストランに行くと
特に部屋番号を言うとかいうこともなく
空いているところで食べて良いらしかった。
しばらくすると、目の前に日本人らしい男と
僕の隣には、連れのガイドらしいロシア人の女性が座った。

>こんなところに今頃来る日本人はいないよな

僕を意識しているらしかった。

>俺も早く帰りたいよ。来たばかりだけど。

当時、ソ連軍とアルメニアはかなり危ない状態でした。
もちろんアゼルバイジャンとの交戦を政府軍が
支援していたからですけど・・・
その男はNHKの記者のようだった。

そのとき僕は、外国人ではないはずなので、
だいいち入国カードに、アルメニアのことは何も書いてなかったのですから。
そういう訳で、向かいのNHKの記者らしい人と話すわけには行きませんでした。
隣には、ガイドという名のKGBがいますし。
むしろ、ロシア語が話せない中央アジア系の男でいるほうが
都合が良かった。

でも、日本語に反応しない僕を、完全にそういう人と
信じてしまった向かいの記者にはひとこと言いたい。

こんなところに日本人なんて居ないよな・・・って、
居るよ目の前に・・・
なんでわからんねん・・・・

 

 

 

小説・随筆・旅行記

 



書きかけ小説 ビブロスでもう一度



「夏になったら・・・・」
彼女は言った
「・・・・もう一度・・・ビブロスで逢えますわね。」
「そうだね・・」
僕は我ながら自分がなんて無愛想なやつだと呆れていた。

 1991年2月、クェート、イラクでは、まさに湾岸戦争が勃発していた。そんな最中、僕はレバノンにいた。レバノンは15年以上続いた内戦がようやく終わりかけているところだった。ベイルートの街なかの建物は、見渡す限り砲弾や銃弾の跡でぼろぼろになっていた。もともとそういう内戦状態だったので、そこでは湾岸戦争のおかげでむしろいつもより平和な日々が続いていた。
 ベイルートから30キロほど北に、ビブロスの遺跡があった。古代のフェニキアの遺跡だ。内戦以前、レバノンがまだ中東のスイスと呼ばれ繁栄を極めていたころ、今はジュベイルという名で呼ばれているビブロスのまちは、世界に聞こえたリゾートで、ヨーロッパ人にとっては夢の地だったそうだ。今ではそれがまさに夢の中に消えてしまったかのように、僅かにその痕跡が見られるだけとなってしまっていた。その唯一といっていい夢の痕跡は、岬の突端あるビブロス・スールメール・ホテルだった。

 ビブロス・スールメール・ホテルは、ジュベイルと呼ばれるようになったその町でいちばんいいホテルだ。ホテルは地理的にはまちのいちばん西に、地中海に突き出すように置かれているので、部屋からテラス越しに見える風景はほとんど180度、海になっていた。
 テラスの左端、方角で言えば南の方には、高層ビルで埋め尽くされた未来都市のような首都ベイルートの半島が微かに見える。雨期なので空には雲がざわめき、黒い雲が遠くのベイルートの半島の上を覆っていた。雲の下は西陽に照らされてセピア色に染まり、その光によって雲の下にある彼方のベイルートの街の姿が、微かにシルエットとなって見えた。そのうちにその雲の暗黒の塊から、まるで生き物の食指のように白い雷光がいくつも下に延び始めた。
 遠くでちらちらうごめいている、その雷光の光景を眺めるでもなく、目を海の方に向けながら僕はホテルの部屋の外にあるテラスの椅子に座っていた。彼女はただぼんやりと、僕の目の先にあるものを追っていた。観光客など居るはずもない、その3階建てのホテルの中はほとんどが空室で、ただ海の音だけがホテルの訪問者であるかのように静かだった。
 そんな現実離れしたところに彼女とたった2人でいながら、僕が口にするのは何の素気もない言葉だけだった。

「夏になったら、また来たいですわ。せっかく水着を持ってきましたのに、まだ寒すぎますもの。」
「まだ2月だからね」
「レバノンは南にありますもの。もっと暖かいと思いましたわっ。残念ですわっ。暖かければわたしの水着姿も見れましたのに。」
彼女は、ちょっといたずらっほい瞳で僕の方を見た。
「残念だね」

 僕が彼女のことを愛していると知ったのは、ずっと後のことだった。いや、もっと正確に言えば、僕が誰かを愛するということを初めて知ったのはと言うべきだろう。
 僕はもう30になるが、基本的に誰かを好きになるということがなかった。かわいい女の子が居れば、それは僕にとってただ単にかわいいという事実でしかなかった。
 中学の時のこと、僕は誰でもあるようにある女の子にたぶん恋をしていた。ある時、その女の子と廊下ですれ違うことがあった。僕はそのときちょっと顔が熱くなって、胸がどきどきするのを感じた。その子とすれ違う度にそうなった。僕が恋をしているというのはその状態から推し量られたことだ。
 ある時ふと、なぜ自分がその子に会うとどきどきしたりするのかと考えた。他人はそれを恋をしているからだと言うだろう。しかし自分が恋をしていることということが、その状態から自分で推測して、これは恋なんだと思った瞬間から恋になるとしたら。それは錯覚ではないだろうか、というのが一つの仮説になった。そしてもう一度はじめに戻って考え直してみた。その子は僕にとってどういう子か。僕にはかわいい。でも、だからといってその子をどうしたいという訳でもない。話したところで何があるわけでもない。残るのは、その子がかわいい存在であるという事実だけだった。以来、恋というのは錯覚に過ぎないというのが結論となった。  翌日、再びその子とすれ違った。しかし、そのときから僕は前のように、熱くなってどきどきすることはなくなった。そして、恋というのが錯覚であるということを証明し続けるかのように、再び誰かに恋をすることはなくなった。可愛い子は純粋に可愛いでしかないということになった。そしてその単に可愛い子にたいして僕ができることは何もない。
 しかし一方で、愛するということが、それとは全く違うことだということはわかっていた。ただ、それがどういうことなのかはずっと分からなかった。
 基本的に僕はだれかと付き合うことがなかった。なぜなら僕にはその人を好きになることはないとわかっているからだ。可愛い女性、興味深い女性、話せる女性。確かにそういう女性たちと会うことはあった。しかしその女性たちが ’違う’ということが分かっていたのだ。愛するという人は、まったく違う感じがあるのを何となく知っていた。現代社会の中では僕はフリークかもしれない。もしもそれがフリークだというなら、僕は別にそれでもよかった。



 僕はときどき予知夢をみる。たいていは自分がその後することになる、いつもと違うことに関するものだった。たとえばエチオピアのスークの風景だったり、スーダンの郵便局のホールの光景だったり、あるいはイスタンブールのモスクの中の出来事だったりする。もちろんそれは、そのときになって初めてわかるのだが、そういう夢は、夢の中なのに、なんでこんな知らないところの風景が鮮明に出て来るんだろうと、夢の中で不思議になって、それが予知夢だと気づくことになる。それはたいてい普通の夢より鮮明だ。あまり鮮明なので目が覚めた後でも覚えていたりするくらいだ。そして2・3日くらいは思い出すことが出来た。そんなありそうもない光景に出会うわけがないといつも思うのだが、そのあと旅に出てその光景に出会うことになる。だからといってその予知夢が僕に何の利益を生み出すわけでもない。
 それはたった一つのことを除けば、ほとんど現実にその光景を見たことになるだろう。というよりもその予知夢に引きずられるように、その場所に行くことになるようだ。実際それが近づくと、その中に・・・とか、この向こうに・・・とか、そのあと知っている光景に出会うのがわかる。それは夢の中の知っていて忘れている部分に自分がすでに入り込んでいるという感じだった。

 未だに出会わない予知夢は、一人の女性のものだけだった。そのひとが私にとって何かとても大切な人であることだけが、目が覚めた後でもわかっていたことだ。


つづく

 

 1991年レバノンにて  雑誌 「建築文化」1998.5 戦争と建築


   1991年のレバノンはまだ内戦が終わるか終わらないかの微妙なときだった。
 空港は危険だというので、ベイルートの北20キロの所にある港にキプロスから船で入ることにした。港から歩いて街の中に入っていくと、街の建物がだんだん普通ではなくなってくる。というのは、壁の弾痕の数が次第に多くなってくる上に、ときどきかなり穴の開いた建物に出くわしたりするのだ。
 銃を抱えた兵士が風景の中に出てくるのをはじめて見たのは、大学を出て間もない1983年のトルコのことだった。以来イラン、イラク、シリア、ヨルダン、イスラエルあるいは内戦下のエチオピアなどいろいろと訪れたが、街中を人が対戦車砲を担いで、散歩でもするように歩いているのを見たのはこのレバノンがはじめてだった。中東の辺境にあるキリスト教の僧院を訪ね歩いて10年、最後の未知の国レバノンではあったが、まだ来るべきではなかったとそのときは思った。

 ベカー高原のバールベクの町に行ったとき、その日はたまたま、その地を軍事的に制圧していたシリア軍の部隊の交代の日であった。隣国の干渉を嬉しく思わないいわゆるテロ組織のヒズボラ(神の党)はその日を逃さず攻撃を始めた。
 それは正に私の目の前で始まった。目の前、ほんの50メートル先のシリア軍のトラックめがけて、ヒズボラの1発の銃弾が撃ち込まれた。打ち合わせされた映画の1シーンのように、シリア軍の兵士たちはトラックの陰に隠れるように集まり、撃ってきた方に向かって応戦し始める。通りの店のシャッターが一斉に轟音をあげて閉まった。
 私が乗ったタクシーは、正にそのトラックの方に向けて走っていたのだ。運転手が悲鳴を上げた。Uターンするには時間がかかりすぎてむしろ危険だった。タクシーはそのままトラックの脇をかすめて路地に入る。散々打ち合っているのにも関わらず、不思議なことに弾は1発も被弾しなかった。途中、泣きわめいて助けを求める人々の中から、女子供を載せられるだけ載せて町外れで降ろした。
 後で聞いた話では、その戦闘は当時平和になりかけていた状況の中では最大の戦闘となったらしく、多くの人が亡くなったそうだ。私を知る人たちは、私がその日そこにいるのを知っていたので、当然巻き込まれたものと思っていたそうだ。だがそれを通報する日本大使館はとうの昔に隣国のシリアに待避してしまっていた。

 隣町に行こうとすると、黒覆面のヒズボラのテロリストたちが、20人ほどで道路を封鎖しいていた。車を止め小銃を向けて取り囲みながら運転手に聞いた。「隣のやつは誰だ」。運転手は言った。「イラン人だ」。するとテロリストたちは「よし、イラン人ならOKだ。通れ」。イランのホメイニ師は彼らにとっては指導者以上の存在だったからだ。運転手自信、私が日本人だといっても信じなかった。日本人はそんなところにはいないと彼は言う。
 当時はまだベカー高原にアメリカ人やイギリス人が人質になっていた頃だったので、当然かもしれない。だが黒覆面の検問がその後2度あって、私が膝の上に三脚とカメラバッグを持っているにも関わらず、イラン人ということで誰もが納得するのが、だんだん腹立たしくなってきた。次の検問ではちゃんとパスポートを見せた。それはシリア軍の検問だった。「日本人はこんな所にいてはいけない。君らは山脈の西側に居なければいけないんだ」。と言いつつほかの町へ行く車を見つけてくれた。その街を出る車に乗り合わせた人たちと話をしていると、実は彼らはヒズボラの人たちであった。素顔の彼らは優しい人たちだった。
 ある日、レバノンでテレビを見ていると人々が歓声を上げた。レバノン正規軍がベイルートの軍事境界線を大きなブルドーザーで片づけているという。翌日近くへ行ってみた。タクシーの運転手が嫌がるので1キロ手前で降りて歩くことにした。数カ月前まではそこは無差別狙撃地帯で、足を踏み入れられなかったのだから仕方がない。進んで行くと兵士たちが居るので、境界線を渡って良いのかと聞いた。土の所は不発弾が山ほど埋まっているから踏むな、という注意書きが必要ではあるが別に構わないと言うので、キリスト教地区側からイスラム地区に向かって歩いた。たぶん私が日本人でははじめて、内戦後のその境界線を越えたのだと思う。キリスト教徒の運転手はついて来なかった。

 時には今、正に住民に声をかけ、これから戦車があなたの家を壊しますよと言いながら、家々を砲弾で壊している最中の所に出くわして脇を通り過ぎたり、あるいは路地を曲がるとそこに迷彩のシートで覆われた戦車に出くわしたり、そんな血生臭い経験をして2週間も過ぎると、町の風景が変わって見えてくる。
 最初に見た町は一生分の危険がそこに広がっているかのように緊張していて、血生臭く悲惨なところでしかなく、1日も早くここを出たいと思った。しかし2週間経つと、その砲弾と銃弾の穴だらけの建物はもっと乾いた、何の変哲もないただの風景となってくる。
 ある人は始めて見るその風景を、不謹慎かもしれないけど美しいと言った。私はそのときは不謹慎だと思った。しかし、2週間するとそれは違ってきた。15年の歳月をかけて銃弾で彫刻された建物を見て、いずれそこに建てられるであろうネオンサインでいっぱいの建物のことを思うと、イスラム教徒でなくとも、むしろそこを現代の遺跡として保存してほしいと思った。
 それがもし単純に15年の歳月をかけて、大砲と銃弾とで彫刻した芸術であれば、きっとそれは美しいと素直に言えるだろう。アメリカあたりならそんな芸術家がいてもいいのではないだろうか。イラクの砂漠に芸術の基になる塊を置いて、ペルシャ湾の戦艦からパトリオットミサイルで正確に彫刻していく。そして各国の選りすぐりの芸術家がその的確さと芸術度を競うなんていうのはどうだろう。きっと兵器の平和利用となるのではないだろうか。


 いつか平和になりすぎて兵器商人の売り手がいなくなったら、こんな建築は要らないというものを壊しまくるテロリストが出現しないだろうか。メチャメチャになったザハ・ハディドやコナゴナになったリベスキン。もともとメチャメチャかもしれないが、理性を越えた神の領域を見れるかもしれない。誰しも壊れた姿が見てみたい建築はあるのではないでしょうか。荒川修作なんかは壊してみても運命だとか言って、相変わらず荒川修作の作品になってしまうような気がするから意味がないかもしれないですね・・・。



   写真については雑誌をご覧下さい。



 

 異界の小都市  〜東方諸派の僧院


   かつてエジプトでは、死者が西に行くという思想から、ナイルの西岸は死者の地とされ神聖視されていた。そして、そこは通常の世界と分けられる意味で異界と呼ばれていた。ルクソールの西岸にある遺跡の中でも特に知られているハトシェプスト葬祭殿。それが後の世になって、キリスト教の僧院として使われていたことでも分かるように、僧院というものは現実の社会ではなく、異界に属すると考えられていた。それは遠い昔のことではなく、西洋から見た東方地域、今で言う中近東周辺と行ってもいいが、そこでは今でもその1500年以上の伝統を守り生活している修道僧たちがいる。キリスト教の中でも東方諸派と呼ばれるものに属する僧院は、地理的にキリスト自身やキリスト教が一つだった時代に由来するものが多く、そういう理由から原初的なものを多く残していた。大きく分けて、コプト教会(エジプト)、シリア教会、アルメニア教会、エチオピア教会の4つに分けられる東方諸派の教会の中でも、修道生活はエジプトに起源を持ち、そこから他の地域へ広がっていった経緯がある。発祥の地エジプトでさえそうであるように、イスラム世界の中で数多くの僧院が荒廃して廃墟となってしまった。しかし一部のものはそれを凌いで生き残り、今では繁栄し小さな都市を思わせる相貌を持つに至った。
 近年日本の社会では、若者が宗教あるいは精神的なことに向かう傾向がある。そのことは、豊かさの基準が変化したことを物語っていると言われている。物質的な豊かさから心の豊かさへということだ。バブル崩壊とその後のリストラ社会、それは色々な意味での伝説、終身雇用や大企業の伝説を大きく崩した。そんななかで、いま多くの若者がインドや中近東をさかんに訪れている。それは宗教的な目的で行くわけではないが、ある意味では宗教的な意味あいを持っている。そこには人間の原点を求めて、あるいは心の拠り所を求めて未知の地へ行くという思いがあるだろう。ある人は神とは何かが知りたくて旅をしているといっていた。最近のこうした関心には一つの原則がある。それは話しだけの死後の世界ではなく、現実の体験を求めているということだ。そのことは古くからの修道制と通じるものが多分ににあるだろう。こうした近年の精神的なことへの関心は日本に限られたことではなく、世界的なことのようだ。
 エジプトでは、古代から続いた修道生活が今でも行われているが、実際にはしばらく衰退していたものが最近になってリバイバルとして復活した経緯がある。その運動を担っている修道僧たちは、古代から生きているわけでもなく、また世襲制でもない。おもしろいことに彼らの多くは、大学出の知識人だったりするということだ。それも、ときには建築家や医者、印刷業者、銀行員などとして一度は働いていて、養わなければならない家族がいたりさえするのだが、それらをすべて捨てて僧院に入る。そういう人の中には何もない砂漠の中の僧院から更に砂漠の中にたったひとり入って行き、そこで孤独に過ごす修道僧もいる。その修道僧の言葉の中で印象的なのは、「何もないということは、総てを持っているのと同じだ」という一言だった。彼は砂漠の中で過ごすのにパンと水があり刻々と変わる美しい砂漠の風景があれば、ほかに何がいるだろうかと言った。彼の言葉は現代社会あるいは物質社会の病理のための、唯一の特効薬のように思えるのだ。また、それは宗教的なことに惹かれ、辺境へと向かう人々の探してるものではないかと思う。そういう若者の傾向が、隠修的であるということでまず信じてしまい、実際には信じがたいところに向かわせているという現実も一方ではある。若者が慕うべき優しい修行者、それが日本にはあまり見あたらない気がする。しかし東方諸派の土地には今でもそういう人たちが居て、話すことができるのが嬉しい。実際には、話しをする必要もないだろう。そこに居るというだけで、そこがいかにすがすがしいかが、彼らの優しさの結果だと感じさせてくれる。そこでは意味の分からないお経もなければ、檀家じゃないからということもない。
 東方諸派の僧院は修道僧の言葉のように、少なからず神秘的な要素を含んでいる。それらの僧院は、時には周囲数十キロに町一つない砂漠の中にあり、あるいは延々と続く山岳地帯の中にあったり、3千メートルを越える山の山頂にあったりする。4つのそれぞれ異なった教会は、それぞれ全く違った形態と空間を持っているが、その立地の神秘性、そしてそこに暮らす人々の不思議な行為が、そこに不思議な場を創り出している。またその空間は、そこが現実の社会と死の世界の狭間にある異界の地であることを実感させ、そこに集う人々の様々に分化された行為、それがそこを極小化された都市だと感じさせる。



『異界の小都市』は写真集のシリーズテーマで、全体を見通した『モノフィジットの僧院世界』と、エジプト編『砂の楽園〜コプトの僧院』の2巻がTOTO出版より出版されています。モノフィジット・・はHPの写真集のところに写真の一部が入れてあります。




 

 

紀 行

封じられた闇の光彩  イスファハンのアルメニア教会(イラン)


 イスファハンに着いたときに降っていた雨は既に止み、メインストリートのチョホール・バーフ通りに面した部屋からは通りの喧噪が伝わってくる。イスファハンは標高1500m位の所にあって、4月の気候はさわやかで過ごしやすい。中央に緑地帯をもち並木の生い茂るメインストリート、そのチョホール・バーフ通りの両側には商店が立ち並んでにぎわっていた。その通りを南に下れば、ザヤンデー・ルード(命を与える川)に架かるシーオ・セ(33)橋に出る。そして、その川の対岸のナザール通りの南側に、アルメニア人の居住区ジュルファはあった。
 1598年サファビー朝ペルシャの王シャー・アッバースは、都をカズビーンからイスファハンに移した。シャー・アッバースは勢力を拡大し続けるオスマントルコに対抗するために、アルメニアへの遠征の必要性を考えていた。彼は1602年にタブリーズを手中にしたあと、目標を北部のジュルファへ向けた。ジュルファを直ぐに手中にすると、さらにアルメニアの都エレヴァンに進み、1504年にはエレヴァンをも占領してしまった。しかし、シャー・アッバースの目的ははじめからこの領土ではなくアルメニア人の確保にあった。交易に精通し、また何より卓越した建築技術を持つアルメニア人がオスマン・トルコに富をもたらすことを畏れ、一方でペルシャ人自信による絹の交易に限界を感じていたのだ。彼はアルメニア人を新しい都の繁栄に貢献させようと考えた。人々はエレヴァンやジュルファ、あるいは他のアルメニアの町からイスファハンへと移住させられた。それは1604年から7・8年間続き、彼らの町はオスマン・トルコ軍に利用されないよう焼き払われたという。
 シャー・アッバースは彼らアルメニア人移民に、イスファハンの対岸を居住地として与え、ジュルファと名付けた。彼らは出身地ごとに教区をつくりそれぞれの出身地の名を付けていたが、そこはかつて住んでいた北部のジュルファに対して、ニュー・ジュルファと呼ばれている。
 シャー・アッバースの企ては成功した。かれらはすでに熟練した商人だったので、すぐに大陸的商業網を張り巡らせて東南アジアからヨーロッパ全土にわたる広域的な交易を行った。ニュー・ジュルファはその中心となったが、それはシャー・アッバースの庇護の元ではじめてできたことともいえた。シャー・アッバースのキリスト教への理解とアルメニア人たちとの家族的付き合いについては、何にもの旅行者がそれについて記述している事実のようだ。
 またそこにはヨーロッパ人と同じ宗教をもち、ヨーロッパの言葉を理解するアルメニア人たちの利点があり、それはシャー・アッバースの計算の一つでもあった。実際彼らには商業の独占と免税などの特別優遇が与えられ、それはシャー・アッバースの後継者であるシャー・サフィー、シャー・アッバース2世、シャー・スレイマンの時代まで続いたという。
 しかし時には、イスラムへの改宗を迫られたり、また宮廷で要らなくなったものを法外な値段で買うよう強いられたりもしたが、そのたびに強い信仰心と粘り強さで切り抜けてきた。しかしながら彼らの繁栄も100年とはもたなかった。アルメニア人への特別待遇はなくなり、改宗の強要や迫害が起きるようになり、人々の中にはすでに商業基盤の出来上がったインドやロシアへ移るものもいた。そして最も多いときには30近くを数えていた教会も現在ではその多くが廃墟となり、現在では12の教会が残るだけとなっている。それらはほとんど同じ年代、つまりはじめてアルメニア人たちが移民してきた17世紀頃につくられたものだった。
 その中でも中心的立場にあり、インド・イラン地域の中心でもあるのが12使徒大聖堂と訳すのだろうか、ナザール通りから少し南へ入ったところにこのカテドラルとアルメニア博物館がある。門を入ると右側にアルメニア教会のシンボルとも言える先頭をもつ鐘楼と、ドームの載った聖堂の建物がある。左側には図書館と博物館が置かれていた。
 聖堂の建物は申し訳程度にタイルがほとんど無装飾と言ってよいほど質素な外観をしていた。上下2段の連続するアーチの内側を後退させる形と、その上に載ったドームはカシャーンの神学校のモスクを思い起こさせる。もちろんそれほどの規模はないかもしれないが、タイルのないドームと煉瓦をそのまま見せているアーチの部分がそう思わせている。しかしそれはカシャーンのものに限ったことではなく、タイルの装飾がないことを除けば、このイスファハンの金曜日のモスクや、王のモスクにに通ずるペルシャの建築だと言うことだ。
 アルメニアの建築はその洗練された石の建築に特徴があり、独特の形と彫刻で知られている。しかしアルメニア人たちがこの地に移民させられたときには煉瓦で教会を造ることを強いられた。ペルシャの建築家の助力をもってできた聖堂はやはりペルシャの建築だったのだろう。タイル装飾が美しいこのイスファハンの建築群に比べるとき、この外観の質素さはアルメニア人の石造建築への素材へのこだわりのようなものを感じさせる。あるいはそれはペルシャ風にすることへの反抗だったかもしれない。
 聖堂内の壁に描かれた聖画は、そうした外観での満たされぬ思いが爆発するかのように全面に隙間なく描かれていて、そこはもうペルシャを感じさせるものはなかった。極限的に光が少ないその空間の壁の聖画は、深く沈むような色で描かれ、全体が深い闇の中にあった。
 ともすると砂漠と同化するかのような装飾のない煉瓦の建築の中に、封じ込められたような闇の空間だったが、その天空にはその深い闇を切り裂くように、無数のきらきら輝くようなものが浮いていた。壁画の中の楽器や植物の模様、それに天空の端々にいる天使たち、それらは皆金そのもので描かれたいた。
 明るく瑞々しい青タイルで飾られたペルシャの建築。それは砂漠の中に造られたオアシスにほかならなかった。同じ砂漠の中にありながらそれとは対称的に殺風景なほど外観を抑制した聖堂は、地上に構築された神秘的な闇の空間を砂漠の中に封じ込めているかのようだ。そしてその封じられた闇は、まるでイスラムの世界を越えて、同種の空間と空間を超次元的に結ぶ転移装置ではないかと思わせるほど、このペルシャの地では異質なものに思えるのだ。



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